かつて樺太(からふと)で開業医をしていた父方の祖父・卓三郎の写真を見ると、全身高級品に包まれ、とてもお洒落だ。仕事の白衣姿にカンカン帽を合わせた姿が格好よく、大久保のお気に入りの写真だという。「会ったことはないけど、俺のルーツは確かにここにある」。父・晃二、母・美智子も、ともに洋服好きだったという。
服と音楽への異常なる愛情。天職との出会い
北海道歌登町(うたのぼりちょう、現在は枝幸町と合併)。旭川と稚内(わっかない)の間に位置する人口約3000人の田舎町が故郷である。音楽好きの叔父の影響もあり中学時代からレッド・ツェッペリンを聴き、音楽雑誌を毎月欠かさず購読した。
「同級生はみなフォーク。ロックの俺は誰も話し相手がいなかった。そういう気持ちを同郷の先輩、畠中仁さん(らーめん山頭火創業者)が救ってくれた。ホンダのクルマに乗ったり、ギターを弾いたり、とにかく愉しそうで、まさに心の拠り所だったんだよね」
畠中に話を聞くと、「あっちゃん(大久保)は、とにかく純粋で、音楽が好きで、音響装置と楽器があった私の部屋によく遊びに来てくれたね」と懐かしむように振り返ってくれた。
大久保の青年期は、「落第」の連続だった。高3の時に日本大学芸術学部を受験するも「勉強してないから受かるわけない」。高校卒業後は札幌に引っ越し予備校へ。しかし、そこでも大久保はアソビ人生をまっとうする。
「ジーンズショップとロック喫茶でアルバイト。再び東京で日芸を受けたけど、都会の人がどんな服着ているのか気になっちゃって入試どころではなかった」
結局、友人に誘われ文化服装学院に入学するため上京。それでも、学校には行かず、原宿・竹下通りの「パンツショップ ラー」でアルバイトをして、そこで大半の時間を過ごした。
1年で文化服装学院を退学し、その後、伊東衣服研究所に籍を置いたが、続かず……。そんな時、バイト先に出入りしていた生地屋に勧められ、コムデギャルソン・オムの立ち上げに伴い、面接を受けることに。
「履歴書を持って川久保玲さんと面接。“経験者を求めているので”、と不採用通知が届きました」
その後、同じ生地屋の紹介で、オンワード樫山に契約社員として途中入社した。
「パタンナーだったけど勉強してないからパターンもひけない。サラリーマンの世界はほんとにつまんなかった。1年半で双方ともに“もうやめましょう”と」
そしてたどりついたのが、雑誌『POPEYE』。素人モデルとして出入りするうちに憧れのファッションディレクター北村勝彦のアシスタントに。ようやく「ここが居場所だ」と実感したが、そこでも挫折を味わう。
「評価が低くて1年でクビ。服は好きだったけど原稿が書けなくてね。東銀座の喫茶店に上司から呼ばれて“君は才能ないからやめてくれる?”と。荷物を整理しに行った時に北村さんを中心に次号の打ち合わせをしていて、それが嫌だったね。みんな俺のことジーっと見てね」
1ヵ月ほど「ぼーっとしてた」というが、そんな時に自宅に1本の電話が。平凡出版社員の石﨑孟(現マガジンハウス取締役相談役)からだった。「ananでプレッピー特集をやるからオマエ、手伝ってみない?」と言われ「やります」とふたつ返事。当時25歳。この瞬間、スタイリスト大久保篤志が誕生した。ananで突如として、水を得た魚のように大活躍した。
「貝島はるみさんというファッションディレクターや編集者の秦義一郎さんや淀川美代子さんたちがかわいがってくれた。1年もたたずにひとりでいろんなことをやらせてもらって」
表紙のスタイリングを任された号が大ヒットし、クライアントから「行ったことないなら欧州に連れていくよ」と“ご褒美旅”に誘われた。
「フィレンツェでアルマーニのスーツを着こなすイタリア人に衝撃を受けた。そんな恰好をしている日本人いなかったから。旅行から帰ってきて仕事ができなかった。雑誌は自分のなかで終わったなと思って、次は広告の世界に行きたいと思った」