別荘族が熱視線を送る父が興した施工会社
大きなトンボが室内に入ってきた。小林大悟さんが施工を手がけた別荘でのことだ。行き場を失ったトンボが、大きなガラス窓の上のほうでバタバタと音をたてる。すると10分もしないうちに1台の軽自動車がやってきた。網を持って駆けつけた大悟さんの会社のスタッフ。
「トンボは放っておくと、いつの間にか窓枠に干からびた姿で見つかることが多いんです。せっかく楽しみに来た別荘で、少しでも不快な思いをさせたくないので」。捕まえられたトンボは、そっと庭に放たれた。
大悟さんの経営する新建築は、主に別荘などの設計・施工を業務とする軽井沢の建築会社。別荘の管理会社ではないし、トンボを捕ったところで1円にもならない。ただし、創業のきっかけとなった白洲次郎の言葉「電球ひとつでも交換に来る建築会社になりなさい」を頑なに守っている。
この言葉を白洲から授かったのは創業者である大悟さんの父、淑希(ひでき)さんだ。吉田茂の懐刀であり、GHQに従順ならざる日本人と言われた白洲と初めて出会ったのは、軽井沢ゴルフ倶楽部のロッカールーム。その時淑希さんは同施設の改修工事を担当した現場監督として、床が凍結しないよう氷点下18度のなか、ひとりで徹夜していた。この時、ゴルフ倶楽部オーナーである白洲が朝早く入ってきたのだという。淑希さんは相手が誰かも知らず「爺さん、そこ入っちゃ駄目だ」と怒鳴りつけ、そこから大喧嘩が始まり、そして縁が生まれた。
淑希さんに会社を作るように促したのも、白洲である。「その時に、軽井沢で別荘を建てるだけじゃなく、電球ひとつ切れたらすぐに取り替えにうかがえとか、襖がガタガタいうんだと言われたら、すぐに飛んでいきなさい、と言われたんですよ」と淑希さん。大悟さんが生まれたばかりの1982年、30歳になった淑希さんは妻とふたりで会社を興した。
以来、軽井沢に根を下ろし、200棟あまりの別荘を建築した。そのなかでも建築家・坂倉竹之助との出会いが、淑希さんの仕事の質の高さを知らしめた。それもそのはず、建築中はすべての現場をひとつひとつ見て回るから建築数は年に10棟ほど。これ以上建築数を増やすつもりもなかった。「建築会社は建てて施主に引き渡したらハイ、終わり。その後のちょっとしたトラブルや改修などきちんと別荘の面倒を見てくれるところがないからね」。白洲の言葉を守る愚直な淑希さんの姿勢に、いつしかエグゼクティブからの仕事の依頼が人づてにどんどん増えていった。
一方、大悟さんは中学2年生になると、夏休みなど長期休暇には家業を自ら自然に手伝うようになった。現場のゴミ拾いや掃除、資材を運ぶ手伝いなどなど。もともとお金が欲しくて始めたのだが、結局大学卒業までの約9年間、長期休暇のたびにアルバイトを続けた。