熱狂の履歴書

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新建築 代表取締役

小林 大悟

エグゼクティブ御用達の“凄腕”仕事人

国内有数のブランド別荘地ーーー長野県・軽井沢。都内ではなかなか会えない、多忙なエグゼクティブたちが本音を語らう場として、さらには重要な決断が行われることもあるこの場所。かつての財閥系企業などが別荘を手放し、代わって登場したのが若い力のみなぎる新世代だという。そんな彼らが軽井沢で頼りにするのが、施工会社の2代目社長、小林大悟。施工実績はゆうに100棟以上。彼らはなぜこの男の仕事に惹かれるのか。

父親の小林淑希さんと。70歳の淑希さんは大悟さんより体格がひと回り大きく、昔はよく父親に投げ飛ばされたとか。実は小山薫堂さんが脚本を手がけ、米アカデミー賞外国語映画賞に輝いた『おくりびと』の主人公とその父親の名前はこのふたりに由来している。

別荘族が熱視線を送る父が興した施工会社

大きなトンボが室内に入ってきた。小林大悟さんが施工を手がけた別荘でのことだ。行き場を失ったトンボが、大きなガラス窓の上のほうでバタバタと音をたてる。すると10分もしないうちに1台の軽自動車がやってきた。網を持って駆けつけた大悟さんの会社のスタッフ。

「トンボは放っておくと、いつの間にか窓枠に干からびた姿で見つかることが多いんです。せっかく楽しみに来た別荘で、少しでも不快な思いをさせたくないので」。捕まえられたトンボは、そっと庭に放たれた。

大悟さんの経営する新建築は、主に別荘などの設計・施工を業務とする軽井沢の建築会社。別荘の管理会社ではないし、トンボを捕ったところで1円にもならない。ただし、創業のきっかけとなった白洲次郎の言葉「電球ひとつでも交換に来る建築会社になりなさい」を頑なに守っている。

この言葉を白洲から授かったのは創業者である大悟さんの父、淑希(ひでき)さんだ。吉田茂の懐刀であり、GHQに従順ならざる日本人と言われた白洲と初めて出会ったのは、軽井沢ゴルフ倶楽部のロッカールーム。その時淑希さんは同施設の改修工事を担当した現場監督として、床が凍結しないよう氷点下18度のなか、ひとりで徹夜していた。この時、ゴルフ倶楽部オーナーである白洲が朝早く入ってきたのだという。淑希さんは相手が誰かも知らず「爺さん、そこ入っちゃ駄目だ」と怒鳴りつけ、そこから大喧嘩が始まり、そして縁が生まれた。

淑希さんに会社を作るように促したのも、白洲である。「その時に、軽井沢で別荘を建てるだけじゃなく、電球ひとつ切れたらすぐに取り替えにうかがえとか、襖がガタガタいうんだと言われたら、すぐに飛んでいきなさい、と言われたんですよ」と淑希さん。大悟さんが生まれたばかりの1982年、30歳になった淑希さんは妻とふたりで会社を興した。

以来、軽井沢に根を下ろし、200棟あまりの別荘を建築した。そのなかでも建築家・坂倉竹之助との出会いが、淑希さんの仕事の質の高さを知らしめた。それもそのはず、建築中はすべての現場をひとつひとつ見て回るから建築数は年に10棟ほど。これ以上建築数を増やすつもりもなかった。「建築会社は建てて施主に引き渡したらハイ、終わり。その後のちょっとしたトラブルや改修などきちんと別荘の面倒を見てくれるところがないからね」。白洲の言葉を守る愚直な淑希さんの姿勢に、いつしかエグゼクティブからの仕事の依頼が人づてにどんどん増えていった。

一方、大悟さんは中学2年生になると、夏休みなど長期休暇には家業を自ら自然に手伝うようになった。現場のゴミ拾いや掃除、資材を運ぶ手伝いなどなど。もともとお金が欲しくて始めたのだが、結局大学卒業までの約9年間、長期休暇のたびにアルバイトを続けた。

父に頼みこみ、建築家・坂倉竹之助先生の事務所で修業。坂倉氏の鞄持ちの傍ら、寝る間を惜しんで一から設計を学んだ。

有名設計事務所で5年間丁稚奉公

だから大学は建築科を目指したのだが、残念ながら落ちてしまい、第2希望の国立山梨大学工学科 土木環境学科に入学した。学科では主に橋やトンネルなど、住宅よりはもっと大きな構造物が対象。

「そこからゼネコンを経験して、家業を継ぐという将来も考えたんですが……」。大学生になっても休みになれば実家でバイトを続けていた大悟さんは、やはり家業で扱っている別荘建築に心を惹かれた。そこで就職を控えた大学3年の時、淑希さんに「建築家・坂倉先生の事務所を紹介してもらえないか」と懇願した。坂倉竹之助は、ピロティ構造(1階に壁がなく、柱だけで外部に開かれた空間)でこれまでの別荘とは一線を画す建築を数多く設計。モダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三を父に持つ。これまでも淑希さんと多くの仕事をこなし、互いに信頼し合っていた仲でもあった。淑希さんもお願いするなら坂倉先生しかいないと、早速連絡してみると無事快諾してもらえた。だから「設計事務所に就職できたと一瞬浮かれてしまった……」と苦笑いする大悟さん。「入社したてはスタッフというより、丁稚奉公」だったという。

設計士を志して入社してくる社員はすべて建築科を卒業してやってくる。「僕だけ図面を書く基礎を学んでないんです。だから社員の模型や図面づくりのお手伝いをするほかなかった」。当初はその写真や模型をギャラリーに飾ったり、ひたすら雑務をこなす日々。「慣れていくうちに模型や図面を引く練習を始め、先輩の作品づくりをサポート。坂倉先生のお手伝いを通して、設計の仕事を一から学ぶことができました」。こうした“仕事”が終わったら、今度は家で一級建築士の資格取得のための勉強。当時の睡眠時間は3時間あればいいほうだった。

坂倉先生のお付きもしていたため、先生と一緒に過ごす時間が多く、「例えばお客様をホテルのロビーで待っている間、ふと先生がロビーを見渡して『小林くん、この空間はどう思う?』ってたずねられるんです。『天井が高くて気持ちいいんですけど、少しチープに感じます』『でしょう?それはあそこの柱の角の納まりが……』とか。そんな話は事務所で図面を引いていたら絶対できない」。他にも施主や施工会社との接し方をつぶさに見ることですべてが勉強になった。こうして坂倉先生のもとで約5年間。大きな案件の仕事を先輩とともに担当するようになり、最初から最後までやり遂げたのを機に、家業を継ぐ決意を固めた。27歳の時だ。

一級建築士でもある大悟さん。建築家と施工の両方に精通しているからこそ、設計者が導いた細部へのこだわりを巧みに表現できる。

父との激しい衝突のなかで掴んだ自分の流儀

ところが、家に戻ってからは父親の淑希さんといちいち方針が合わない。だからいつも喧嘩、そんな毎日だったと大悟さんも、淑希さんも振り返る。淑希さんは元プロのキックボクサーで、現在も長野県柔道連盟の顧問を務めるような、見た目からしてタフガイ。怒った時の淑希さんは赤い炎が身体中から噴きだしてきそうだ。一方、息子の大悟さんは小柄で一見物腰が柔らかいが「オヤジより頑固かもしれない(笑)」と大悟さん。確かに睡眠時間3時間を5年間続けるほどだから、少なくとも、かなりしぶとい。例えれば、青白い炎が静かに燃え続けるタイプ。「性格が真逆なんですよ。それなのに多分、どこかで自分もオヤジのように振る舞わなきゃいけない、と勝手に思っていたんです。オヤジは、とてもお客様に愛される」。そうでなければ、あの白洲次郎も可愛がらなかったはずだ。だから前に出ても周りを巻きこめる。「でも僕はそうではない。じゃあ自分らしくやればいいんじゃないか。オヤジにはオヤジのやり方があるように、自分は自分に合った方法を選べばいい」。そうやって大悟さんが自分のなかで咀嚼(そしゃく)できるようになってからは、急に淑希さんが出てこなくなったという。

軽井沢で鉄筋コンクリート造も請け負える施工会社はいくつかあるが、そのなかでも「軽井沢の別荘を任せるなら新建築」と別荘族の間では評判が高い。冒頭でトンボが迷いこんだ建物の施主である山本誠一郎さんも、坂倉竹之助に依頼し、新建築が施工を担当した。山本さん曰く、この組み合わせはゴールデンコンビだという。

山本邸の1階の玄関脇には「ワイン庫」がある。「普通のワインセラーだと、ゲストと一緒にワインを見て選ぶ楽しさがないでしょ。『あ、このワインは……』といった会話が生まれない。だから何人かで同時に入れて、ワインを手に取りながら選べるワイン庫が欲しかったんです。扉の上が円状だと雰囲気があっていいね、冷気を上から出して下に降りるようにすれば? など私もいろいろアイデアを出しました。ただ、それをどうやって実現したかまでは知りません(笑)」とは山本さん。そこで大悟さんに聞いてみると「内側はずっと一定の湿度を保ち、扉は外気温度に左右されやすい位置にある。軽井沢独特の環境に加え、木製の扉ですから木が反りやすく、歪みが心配でした。実は竣工(しゅんこう)後2回ほど見に行って、調整しています」。

調整の話は、山本さんも今回の取材で初めて知った。「それが彼のすごいところなんです。経過の話はいっさい話さない。『できました』しか言わないんです。だいたい『いやぁ大変でした』なんて言われたら、何か申し訳なくなって。苦労をインプットされちゃうと、せっかくの軽井沢で気を遣ってしまいますし」。

父の淑希さんが手がけた別荘や住宅は200軒以上。大悟さんは現在まで増改築含む約100軒に携わる。「東京から新幹線で1時間ちょっとという軽井沢。移住や別荘についての問い合わせがこのコロナ禍でひっきりなしに増えています」とは大悟さん。条件のいい土地を探している人は多いが、需要に対して土地が足りないのだとか。「今後も社会のニーズの変化に対応しながら、より軽井沢に適した建築を造り続けていきたい」

お客様に怒られたことで見えてきた“時間”の大切さ

そんな気配りな大悟さんも、一度こっぴどく施主に怒られたことがある。工期が大幅に遅れてしまったのだ。もちろん怠慢ではなく、天候による工事の順延や、特注した部材の遅延などいくつもの要因が積み重なったせいだが、怒られるまで「誠実に話せば納得していただける、とどこかで甘えていました」。

ところが遅延を施主のところへ謝罪に出かけたところ、厳しく叱責(しっせき)された。「時間はね、お金以上に大切なものなんだよ!」。この時の施主の言葉が心の奥底に突き刺さった。「“時間”というものを深く考えさせられました」。トンボを捕らえるのは、そうした時間をお客様に割かせたくないという、この時に芽生えた大悟さんの“時間”という観念から。

トラブルが起きたらすぐに対処に向かう。お客様のクルマが動かないと連絡があり、飛んでいったこともある。また設備や電気、建築的なトラブルが起きないように大悟さんは家を造る。例えばもし軽井沢の仕事が初めてという設計事務所が、軽井沢の気候に合っていない設計をしてきた場合は、軽井沢独特の気候条件(霧や湿気、凍結、凍害)、獣害や虫の問題などを踏まえ、図面の訂正を進言してみる。また図面になくても見積りの際に除湿機を書き加える。

「軽井沢は霧の街。庭にキレイに苔がむすのは、日向日陰のバランスなど、それだけ湿度があるからです」。他にも虫やキツツキ、イノシシ、エリアによっては猿や熊……。その生態や、彼らがどういう影響を家に及ぼす危険があるのか、どうやれば近づかないのか、とことん調べる。「一度、車庫にカマドウマが大量に発生した別荘があったんです。調べてみると、もともとカマドウマは森に暮らす昆虫で、湿気があり、暗くて空気が淀んでいる場所を好むとわかりました」。湿気の多い軽井沢の、終始シャッターが下ろされがちな車庫は、まさにカマドウマの絶好の住み処。そこで車庫に明かり取りの窓をつけるとほぼ見かけなくなったという。

もちろん工期にも細心の注意を払う。そのため請け負うのは目の届く範囲、年間5棟から10棟。規模の大きさで手がけられる数は変わる。規模の大きな仕事を受けたほうが経営上はいいが、新建築はえり好みをせず縁を大事にする。あとはタイミングしだい。大切なお客様から新しいお客様を紹介されることが「全体の約7割」にもおよぶが、せっかく紹介してもらっても断らなければならない時もある。それでも待ってくれる「ありがたいお客様」も多いと言う。

「お金を稼ぐことが仕事ではない」と大悟さん。きれい事?いや、本気の目。ひとりでできる仕事なんてない。施主と建築家や現場監督、施工する職人、会社の事務、住宅設備メーカー……たくさんの人に「支えられてできる仕事」。彼らを裏切ることがないように、しっかり地に足をつけてやる。注がれる信頼に応えたモノができあがれば皆が笑顔を見せてくれる。「だいたい、モノづくりが好きな僕が、たくさんの人に支えられて、好きなモノを造ることができる。好きな料理を作ってみんなに美味しいと喜ばれるのと同じ。本当にありがたい話じゃないですか」。

電球以外に、新建築はもうひとつ白洲からの“いいつけ”を守っている。それは「駅前に店を構えること」。軽井沢へ来た際に、あるいは帰る前にふと寄れる、そんなお店にしなさい、という“いいつけ”だ。

お客様のなかには、冬を迎える前に新建築の駅前にある事務所に寄られて「今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします」とご挨拶に来られる方も多い。なかには淑希さん時代のお客様で80歳を過ぎた方もいらっしゃる。限られた軽井沢での時間を最大限、有意義に過ごしてもらうために……。だからこそ電球が切れたらすぐに飛んでいく。これこそ淑希さんが大悟さんに唯一望むこと。「今後はスマートハウスをはじめ、挑戦したいこと、勉強しないといけないことがたくさんあります」と大悟さん。軽井沢で過ごす時間を心底楽しんでほしいと切に願う。それが小林大悟という男。白洲に愛された淑希さんとは違うキャラクターで、東京の別荘族に愛されている。それが軽井沢の施工会社の2代目若旦那だ。

恩師、建築家の坂倉竹之助が語る小林大悟

寡黙で、聞く姿勢がいいなというのが第一印象。付き合っていくなかで彼の誠実に、よく動き回って対処してくれる能力に驚かされました。この業界で、彼ほど謙虚で誠実な施工会社の社長は他に知りません。この世界、一番重要なのは“信頼”なんです。施主との、設計士との、職人との信頼。その信頼を決して彼は裏切らない、という安心感があります。お父様も、スタイルは違うけれど誠実な方。誠実を貫くには芯の強さがないとできませんが、その辺はあのお父様の子だなと思います。

建築家・坂倉竹之助
1946年東京都生まれ。父は日本のモダニズム建築の第一人者、坂倉準三。作品には「ギャラリー・サカ」、著名人の軽井沢や湘南などの別荘を数多く手がけている。

※ゲーテ2020年12月号の記事を掲載しております。掲載内容は誌面発行当時のものとなります。

小林 大悟

Daigo Kobayashi

1979年長野県生まれ。柔道二段。幼少期より父の仕事で軽井沢へ足を運んでいた。妻と子供ふたりがいる。家でも仕事のことばかり考えがちだが「下の子が突然、子供らしいワケのわからない質問を投げてくるんです。思わずそれに答えようとすると、それまでの思考が強制終了されて」ようやく仕事から解放される。