チームを一段飛ばしで成長させるために
白熱するコートに視線を向ける時間は短い。11月13日、本拠地・西宮市立中央体育館で開催されたB2リーグの福島ファイヤーボンズ戦。西宮ストークスで陣頭指揮を執る北村正揮代表取締役は忙しなく会場内を動き回っていた。プレイに一喜一憂している暇はない。クラブの成長に役立つ情報をひとつでも多く入手するため、ブースターやスタッフとの対話に精を出した。「ストークスのために新しい情報をキャッチすることを常に意識しています。それをチームにインプットし、新しい形でアウトプットする。例えばスタッフが1日100個の情報をキャッチして、僕が50個しかできなければ、それはクラブに貢献できていないということ。危機感を持ってやっています」
バスケの経験はなく、高校時代は野球部。地方大会で早期敗退するレベルだった。高校卒業後は夢もなくフリーターとなり、都内の喫茶店で調理補佐に従事。その頃、プロ野球の野茂英雄が大リーグで活躍して広くメディアに取り上げられたことで、GMやマーケティング、通訳など選手以外にもスポーツに関わる幅広い仕事があることを知った。
本場でスポーツビジネスを学ぶため、米国に留学。英語がまったく話せない状態から語学学校、短大を経て、ワシントン州立大に編入した。短大時代には日本人グループで過ごす時間が増えたことに危機感を覚え、野球部に入部。米国人ふたりと共同生活を送り、語学力を養った。コーチング、クラブ経営学、スポーツの法律などを学び、帰国。複数の国内クラブに履歴書を送ったが、採用されず、1年間はアディダスの直営店で販売員のアルバイトを経験した。
「日本に戻っても就職先がありませんでした。頭でっかちで、現場では即戦力で使えなかったのだと思う。販売員のアルバイトは貴重な経験でした。アディダスの靴を買ってもらうためには商品の魅力を伝えることが大切。クラブの魅力を発信する今の仕事と重なる部分は多い」
2007年に当時日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)の大阪エヴェッサに通訳で採用された。外国人選手との交渉窓口や試合の運営、演出など通訳の枠を超えた仕事をこなし、’10年に西宮ストークスの前身である兵庫ストークスの初代GMに就任。チーム立ち上げの中心を担った。’14年からは一時チームを離れ、3×3(3人制バスケ)の普及に尽力。東京五輪は国際バスケットボール連盟(FIBA)のスタッフとして運営に携わった。西宮ストークスの個人オーナーを務め、共同オーナー制や新アリーナ建設計画を進めてきたスマートバリュー渋谷順代表からオファーを受け、五輪後に社長に就任。コネストというホームタウンアクションを立ち上げたり、YouTubeなどデジタルでの戦略を強化するなど改革をスタートさせた。