「メゾンカイザー」で1位、2位の人気を争うのは「バゲットモンジュ」(手前)と「クロワッサン」(中左)という、伝統的なフランスパンだ。
1日100本バゲットを焼き、売れるのは10数本だけ
2000年、木村は「ブーランジェリーエリックカイザージャポン」を設立する。「木村家の資本が入ると、起業した意味がない。木村家の助けを借りずに自分の力でやり抜かなければ」と、資金は自分で調達。大手金融機関に断られたため、母方の親戚に借金をし、比較的貸料が安かった高輪に第1号店を出店した。国道沿い、周辺に商店が少なく、お世辞にも賑わいがあるとはいえないロケーションである。しかも、当時パン専門店での売れ筋は、菓子パンやロールパンといったソフトな口当たりのもの。フランス仕込みのハード系は人気がなかった。バゲットをはじめ、「パン屋で売れゆきワースト10に入る商品ばかり(苦笑)」が並ぶ「メゾンカイザー」は、早速苦境に立たされる。「毎日100本のバゲットを焼いても売れるのは10数本。そんな状況が、半年ほど続きました」
木村はパンを焼く一方、店舗にも積極的に出た。そしてある時、年配の女性の接客をする。「そのお客様がおっしゃったんです。『ここにあるパンはおいしそうだけど、どう食べたらいいかわからない』と。そこで、夕食のメニューをうかがうと、肉じゃがと鯛のお刺身でした。だから提案したんです。『肉じゃがは味付けを変えればポトフになるし、鯛はカルパッチョになる。バゲットにぴったりですよ』と」
彼女は翌日も店を訪れた。「昨夜のメニューが家族に好評で、ひさしぶりに食卓で会話が盛り上がった」と笑って。「本当に嬉しかった。そして、心に決めたんです。僕が目指すのは“パンがある素敵な生活”を、日本に根づかせることだと」
祖先・木村安兵衛氏が、明治初期、パンになじみがなかった当時の日本人に受け入れられるようにと「あんぱん」を考案し、パンという食文化を広めたのを思うと因縁めいたものを感じる。
「そうかもしれません。木村の家に生まれた僕が、パン業界に何らかの足跡を残せるのであれば、誇らしいですね」
高輪本店が軌道に乗り、300万円だった売上げは、翌年3億円へと急上昇。’04年には「コレド日本橋」にも出店を果たす。同ビルの話題もあって、売上げは1日200万円にも及んだ。「『この勢いで、年商10億にチャレンジだ!』なんて思っていたら、あっけなく夢は途絶えました。社内で派閥みたいなものができて、お客様のほうを見なくなったのが原因。売上げは1日40万円に落ち、主要スタッフが辞めていき……。出店費用も多額だったので、どうやって借金を返せばいいんだと途方に暮れました。日本橋の店を出て、『どのビルから飛び降りようか』と思ったことすらあるくらい」
そんな木村を奮い立たせたのは、業界内でささやかれていた「フランスパンの店なんて成功するはずがない」という言葉。「日本中のパン屋が、僕の失敗を待ち望んでいる。そういう強迫観念めいたものは、アメリカに留学した時からずっと持ち続けていました。でも、そう思いこんでいたからこそ、『ここで逃げるわけにはいかない!』と、自分を奮い立たせられた。僕、めちゃめちゃ負けず嫌いなんです」
人手がないなら、自分が2倍も3倍も働けばいい。木村は高輪本店とコレド日本橋店をかけ持ちし、早朝3時から深夜0時過ぎまで、脇目も振らず仕事に没頭する。休日はなく、睡眠時間が2、3時間ということもざら。その甲斐あって売上げは回復の兆しを見せ始めたが、木村の猛進は止まることがなかった。「今振り返ると、疑心暗鬼になって、スタッフに任せることができなくなってしまったんでしょう。実際、『オレがこんなに一生懸命なのに、どうしてスタッフたちは同じように働いてくれないんだ』と思っていました」